もう一人のY君

iPhoneアプリのレビューやアップデートレビューなどを書いています. たまに数学の記事も書きます.

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6÷2(1+2)を再び振り返る

 こんにちは、@the_theorierです.

 今回は少し前にちょっとした盛り上がりを見せたこの問題について、より本質的なツッコミ(になるかは分かりませんが)を書きたいと思います.

考えてみれば問題だらけ

 これまで色んな議論が交わされました、小学校ではこう教えている、中学校では〜この教科書では〜この参考書では〜この電卓だと〜…

 、と言うことは、この問題は定める前提によって解釈が分かれる、いや「解釈を変える事で結果が変わる」と言うことです、そんなシロモノを問題と見做すべきでしょうか、疑問に思いませんか?

 本来、問題と言うのは、解釈によって結果が変わるべきではなく、単純な話で、「知識があれば誰もが同じ結論に辿り着く」ものでなければなりません.
 そして出題者はそれを大大大前提に、問題作りに励むのです.

 反せば、「解釈を変える事が出来る」時点でそれは問題としてお粗末と言う他ありません.

ではそれを解決するにはどうすれば良いか…、これは簡単な事で一意的な結論に至るような「解釈」を含めて、それを問題とするだけのことです.

 そう言う意味で、自分はこの問題は「問題でない」と言う結論を貫いています.

 記号論理における「証明」の定義は、「仮定の取り除かれた演繹」を指します.

 仮に「A→B」と言う命題があったとしましょう、そして我々は今Bだけを見てあーだこーだと言っているんです.

 ここで上記の「証明の定義」が気にかかるでしょうが、ようは仮定を結論に残す事で、証明演繹の流れから「取り除く」のです.
 つまりBだけでは真偽が定かでなくとも、A→Bが真であれば、我々は「『A→B』を証明した」事になるわけです. 

 従って今回のような場合、本来はAと言う仮定も内包して、Bについて論じるはずなんですが、肝心なモノが抜け落ちてるのでこうせざるをえません.

 するとどうなるか、実際の論争ではつまるところ、

「A(1)ならB(1)になる」
「いやA(2)ならB(2)になるぞ」

、こんなやり取りをしているのです、A(1)やA(2)には「ある参考書」や「小学校」、「ある電卓」などを当てはめたものとします.
これは余りに不毛ではないですか?

 我々が演繹論法として断言出来るのは、今回のそれはBではなく、仮定を含めた命題、つまり

「A(1)→B(1)」
「A(2)→B(2)」

に他なりません.

 つまりある仮定を含めたその演繹は、その各々で正しいのです.

もう少し易しく言えば、B(1)が正しいかはさておき、A(1)→B(1)は正しいのです.

 しかしA(2)→B(2)を主張する側は、A(1)だけを見て、或いはB(2)だけを見て、「それは違う」とするわけです、ギャグの立場も然り.

 然らば、これはもう本来の議論である「Bは正しいのか?」から逸脱しています、従ってここまで来るともはや本末転倒なのです.

 各々が勝手気ままに「解釈」という名の仮定を持ってきて、それを基づいて結論を導くんです、そりゃそれぞれは正しいですよ.

 つまるところ、このように件の問題自体が曖昧な以上、我々は結論を一意たらしめる要素、つまり仮定、解釈を無意識のうちに「決めつける他ない」のです.

 そもそも、このように「論争が起こること」自体、それが問題として不十分であることの証左だと、みなさん思いませんか?