今日はちょっとした雑記です.
主張されたもの同士のパラドックス
現代になるにつれ、色んな言葉が誕生しましたが、モノによってはそれ単体で一人歩きしたり、互いに矛盾しあって却って問題を抱えているモノがありますね.
例えばそれは「自由」だったり「人権」だったり「権利」だったりです.
自由というモノは最早色んな場で主張されまくってる訳ですが、その割にはこれに限らず、責任を持てずに言い訳や責任転嫁をグダグダ繰り返して無用な炎上をしたりしていますね.
「権利」を加えると、モノによっては互いに矛盾して話をややこしくさせています、例えば
- 報道の自由
- 表現の自由
- 個人情報保護
- 知る権利
- "報道しない"自由
…と色々です.
その場その場で一方に偏向しやすく、また各々が最早尊重されるべき存在として認知されてしまったので、どちらかが喧伝されればもう一方がおざなりになっていると騒がれます.
自由や権利は確かに尊重されるべきなんですが、如何せん後先考えずにどんどん作り出されたため、互いを比較することがもう出来なくなってしまいました.
ある意味ではそんなことしては差別と言われ兼ねないし、しかし相対する主張が双方相容れる訳もありません.
このままで良いのでしょうかね?こういうのをちゃんと議論すべきだと思うのですが…
風評被害とヘイトスピーチ
そしてここ数年で世間に広まったこの二つの言葉です.
「差別」という言葉も然りですが、まぁどこの国とのやり取りか…は敢えて触れないとして、ヘイトヘイトと言うのはまぁそちらの自由としても、そう言うなら然るべき理由があるのでしょうが、最近はその正当性を放り投げてとにかくヘイトと付ければ良い…な感が否めない感じです.
原発事故をはじめとする「風評被害」と言うのも、最近では何だか「放射線を恐れる国民をねじ伏せる為に」、「風評被害を払拭〜」としているようにとれて気になるところです.
前述の「表現の自由」が尊重されるならば、極論すれば言論弾圧に近いモノがあります、「怖いのに怖いと言わせてくれない」んですからね.
そして先日、箱根山に際しても、「風評被害によって観光にダメージが及ぶこと」を心配する報道が目立ちます.
「自然災害」なのに風評被害とは…ちょっと何とも言いようが無いですよね(-.-;)
ある記事では「噴火より風評被害が心配」だそうです、万が一本当に噴火し、より被害が出たとしても、風評被害対策を評価するんでしょうか…
最近「おもてなし」が露骨に喧伝されますが、自然災害の恐れよりも観光維持に拘るのがおもてなしなんでしょうか…
もちろん現地の方々にとってまさにこの直近、下手するとその先も分からず不安でしょうし、だからこそなんでしょうが、ならば同時に「こちら側の不安」も認め、理解した上で策を講じるのが正しいやり方なんじゃないでしょうか?
原発事故も同じで、「国民の不安を煽る」などと言ってなるべく「不安になるような報道」はしていない様ですが、それってつまり知る権利に関わるわけですし、そもそも「知らされない」と言うことは、それにより関わる人には却って不安に駆られるのでは…?と思うのです.
つまり「不安を煽る」として報道しないことで、実は「不安を煽っている」と言う矛盾が起きているのでは…と.
先日から1fで水蒸気がモクモクしてるわけですが、それは報道しないんですかね?「不安を煽る」から?「復興の妨げになる」から?「風評被害」だから?
現実を直視せず、寧ろ「知らない方が良い」かのような風潮にしたいのかどうなのか分かりませんが、そんなことしても現実は変わらないはずなんでけどね…
先日も政府が輸入品に関して台湾を批判していましたが、そもそも事故間もなく多くの国が輸入制限、或いは禁止をしており、それは多少変化はあれど今現在も残っている訳で、今回台湾が「報道までして」台湾を批判するのはイマイチ理解出来ない、何か「理由があるのでは」と勘ぐってしまうわけです.
台湾に対して批判するなら、露中米英始め他国にも分け隔て無く、初めから批判するのが道理でしょう、「風評被害になるからやめて」と言えば良いのです.
〆
言うまでもないですが、僕は別にそれで一方の立場を批判しているつもりはありません.
寧ろそれによって他方も不安に駆られ、困惑していると言うことも理解して欲しいと思ったからです.
ましてそれが「隠蔽」だったり「嘘」が絡むのであれば、それが批判されても文句は言えないはずです.
数ヶ月後、数年後にやって後出し暴露本するのもです.